優しくなりたい
って何年前の曲だっけ。2011年。12年前。12年も経ってるのにちっとも優しくなってない! 残酷すぎる。12年ってもっとこう、人間的に、こう、成長的ななんか、そういうのがあってもいいんじゃないか。ない。現実。
優しそうと人は言う、私を指して。そして私はちっとも優しくない。正確には、私は私のことをちっとも優しい人間だとは思っていない。人が私に抱く印象は最終的には人それぞれその人の中で形作られていくもので、実際のところどうかはわからないけれども、人の印象と私の自覚は大きく異なっている。
なんでこんなことになっているのか。原因はある程度推測がついていて、「人と物事に対するハードルが違う」ということと、「単純に人への興味が薄い」ということだと思う。
ハードルは、わかりやすいところだと何か荷物を運ばなければいけない人がいて、その人はその荷物を運ぶのに10の労力が必要だとすると、私は身体が大きいのでその荷物を運ぶのに6の労力で済む。そうすると私が運んだほうが良いから、荷物を運ぶのを代わってあげたとして、その人は自らの10の労力で感謝してくるけど、私の実感としては6の労力を提供しただけなので、そこにギャップができる。私が思うよりも多く、感謝されている状態。
今のはわかりやすい例だけど、例えば何かの作業であったり、誰かに伝えづらい何かを伝えないといけなかったり、そういったものを代わりにすることが、あまり苦ではない。正直、本来やらなければいけない人の何かを代わりにするという時点で、私の中には「自分の仕事ではないし」という言い訳が発生し、それ故にだいぶ無責任に代わりを行っている。実際には責任を強く感じるかどうかで結果が変わることなど稀で、それで大抵のことはどうにかなってしまう。それで感謝される。自分が思うよりも多く。
人への興味が薄いというのも、例えば相手が遅刻をしてくる、相手が何かしなければいけないことをしていないという場面で私が感じるのは「じゃあどうしようか」であって、相手に対して憤りを感じることがあまりない。そもそも他人のすることを自分が左右できるわけじゃなく、自分ができるのはその後どうするかだけで、今更過去を変えられるわけでもなし、憤ったところでどうにもならない。粛々とそこからどうするかを考えてしていくだけである。私から見れば冷たい人だなと思うけれども、他人から見ればそうじゃないんだろう。
つらつらと、私は本当は優しくないんだ、周りは勘違いしているという内容を書いたけど、これを書いて何になるんだろう。世界に優しくないとアピールして何か得することがあるんだろうか。でも、気持ち悪いんだ、ずーっと、少し。損得の話ではなく。ただ多かれ少なかれ、誰しもそういうものを抱えているのかもしれない。周囲からの評価なんて自己評価と違って当たり前で、それでも近しい人たちがちゃんと理解してくれていたりするから、それなりに上手くやっていけてるのかもしれない。私だって、妻はちゃんと私のことを「あなたは優しい人ではない」と認識してくれている。ただその理由は上に書いたことではなく、「あなたは身体が大きいからその気になれば大抵の相手を倒せるので、その精神的余裕から寛容なだけである」というもので、マジでクレイジーな理由だなと思って気に入っている。全然違うけど。